自分を安心させるために、あえて犠牲的になってしまうことがあります。

「自分が、他人の犠牲になっている状態が、不安を静めることとなり、とても安心する」人がいます。無意識ではあるのでしょうが、このような感情や価値観があるため、自分を解放したり楽になったりすることを許可できないまま、苦しい生き方をしてしまうことがあります。

このタイプの方は、「他人を優先するのが正しいこと」、「自分を大事にするよりも、自分以外の周囲を大事にすることが、望ましいはず」という思いをもっています。

そのため、自分が楽しんだり喜んだりすることが、自分の思う「正しさ」から、外れている認識になるので、いつも張り詰めていて緊張していて、力を抜くことも楽しむこともできません。

人のため・・・というよりも、「自分を安心させるために、犠牲的になっている」という部分もあるのですが、そちらは、本人の中で「ないことになっている」のですね。

人のために努力したり尽くしたりするのは、悪いことではないため、どちらかといえば歓迎され尊敬される事柄なので、とても大変で消耗しているのに、その姿勢を見直す考え方になりにくいものです。けれど、こうした生き方のまま、人生の数十年を貫き通すのは難しいでしょうね、どこかの時点で立ち止まらされて、気づかされることになります。

してもらえる相手はよくても、してあげる側の自分が大変になますから、どこかの時点で、息切れして、そして「自分の中の、見直さなければならない部分」を見つめ直すようになる、という形での気づきの機会を与えられます。

自分がとても不安なので、自分を安心させるために犠牲的になっている、してあげるポジションに自分を置きたくなっているということに、気づけるかどうか。ここが難しいのですが・・・、不安感を解消したくて、そうなっていることに気づくと、掛け違えたボタンが順番にととのっていくように、今までと違う理解の幅がでてきます。

安心したくてやっているのに、消耗して疲弊して、まったく安心できなくなっているなら、その方法は(過去はそれでよかったかもしれないが、少なくとも今は)目的とあっていない方法をとっていることになります。そのことに気づくのは、心理的な抵抗感がかなりあるので苦しいのですが、苦しさをこえると、きっと少し楽になりますよ。

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