肉体の年齢と、たましいの年齢。

41866639 - fantasy landscape in the sky with birds
人の成熟度というのは、肉体の年齢だけでは計れず、たましいの年齢、つまり前世も含めてどのくらい「経験値」を持っているか、ということも関連しています。

そのため、この世の肉体の年齢と比較して、とても大人びたタイプの人もいれば、逆に、幼いタイプの人もいて「いろいろな人がいる」ことになります。

スピリチュアルな観点からすれば、そうして、誰もが肉体の年齢と比例した、一律の成熟度ではないことを踏まえて相応な接し方をしていくことが望ましいですが、しかし、この世というのは、物質の世界なので、さまざまな場面で「肉体の年齢」に見合った社会常識や成熟度を、求められてしまうものです。

もう、大人なのだから、このくらい出来て当然、このくらいはしてくださいという期待や責任が「ある」とされる場面で、「いやいや、私は、たましいがそれほど大人ではないので、出来ません」などと、まさか言えないでしょうし、

スピリチュアルな観点では、それが事実だとしても、この世の物質界では「通らない、言い分」とされてしまいます。

そのような状況に置かれることも、学びのひとつですね。(実際の成熟度は、年齢では計れないけれども、それでもなお)年齢の区分けである程度の線を引いて、それに見合った解釈なり振る舞いなりを求められるこの世という場所で経験を積むことが学びなのです。

一部分だけをとらえると、たましいの経験値が少ない人ほど、この世での負荷が掛かり、経験値が大きい人は、同じ期待に対して比較的楽にそれをクリアできるのではないか、経験値が少ない人のほうが苦しい人生だと思うかもしれませんが、全体を考えてみればそんなことはありません。

それは、収入の多い人ほど累進課税でたくさんの税金を負担するのと同じで、経験値が大きい人は、それにみあった学びを、同様か、もしくはそれ以上に別の形で与えられています。

たとえば、経験値の少ない人が、仕事がうまくできなくて怒られたりするのは、成熟度の面からいえば不公平であり苦しさもあるかもしれません。しかし、その出来ない仕事をフォローするのは経験値の大きい人がすることになるかもしれず、それなりに釣り合いはとられるものです。

経験値が大きくて器用な人は、どんなことも(苦労して、頑張ってやっているのに)出来て当然と思われたり、いろんな工夫を凝らしても、他の人がそこまで気付かないので評価されないこともありますし、そういう人なりの苦労というのは、また違った種類のものがあるわけです。

この世という舞台は、一律の年齢で計られることが多いです。たましいの成熟度の大小によって、不公平があるように思えても、誰もが、その「一律の年齢で計られる状況を、分かった上で活用して、それぞれの個人の学びをしている」ので、たましいの観点からみれば、それが不公平ということではないのです。

皆、この世という舞台を利用して学びをしている、という意味では「同じ」なんですね。

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