いろんな形で人のためになっていて、いろんな形で戻ってきている。

この世には、「カルマの法則」とよばれる真理のしくみがあり、自分の行いのすべてが原因となり、結果をつくるという繰り返しで、ものごとが展開していくようになっています。

それは、相手と自分との間に起こることも同様で、自分が、誰かに何かをしてあげたことは、結局は、「自分のところに、何かの形で返ってくる」ことになります。

情けは人の為ならず(相手のために親切にしたことは、相手のためになるだけでなく、やがては自分のためにも役立ちますというような意味)という言葉が示すのは、実際、そのとおりなのです。

受け身的に、してあげた形になることも含まれる。

「誰かに、何かをしてあげたこと」とは、いろんなことに広く該当します。自分のほうから意図的に、働きかけをしたことに限らず、「相手が、自分から何かを受けとったこと」も含まれます。

たとえば、「自分が、スーパーで、棚から落下している商品を見つけて戻してあげた」とします。この行いは、スーパーの人の作業を減らしたのですから、相手のすることを助けた行為になります。

さらに、その姿をみていた別のお客さんが、「あの人は、いい心掛けで、自分も見習いたいものだ」と思ったとしたら、そのお客さんに、気づきを与えたという「してあげたこと」が発生します。

これは、自分がそうしようと意図したことではなく、相手が自分から引き出したことです。しかし、間接的にはやはり、相手に役立っていることとなります。

恩恵を受けた人がいれば、自分が「与えた人」になる。

もうひとつ別の例として。自分がしたことから恩恵を受けた人がでてくれば、相対的に、自分が「それを与えた人という立場になる」という形で、「してあげた」ことがつくられるケースがでてきます。

たとえば、「自分が工夫して、書類の形式を見やすく整えた」ものが、とても使いやすいと評判になって、「部内の書類のひな形として、採用されることになった」とします。

そうすると、以後、その書類をつかって効率化がはかられて恩恵を得た人たちがたくさんでてくることになりますよね。その人たちは、書類を作ったのが誰かとまでは意識しなくても、役立っていくのですから、間接的に、相手へメリットを与えていることになります。

このように、直接、特定の相手に対しての親切や助けをすることだけでなく、いろんな形で、日常のさまざまなことが、人のために役立っているものです。

日常の中で、自分があらわしているいろんなことが、思っていない形で誰かのために役立っていることも含め、それらはすべて、いつか何かの形で、自分のところへ戻ってくるようになっています。

すべてが該当する、とても範囲の広い法則です。

自分のあらわしたすべて、放ったすべてが、何かの形で、自分の人生に反映していくというしくみが、カルマの法則です。

このしくみをしると、自分の人生を豊かにするために、あれもこれも人のために頑張らなくては!と力が入りすぎてしまう人がいますが、どのようなこともすべて、間接的なものも含めてしくみは作用しますから、全体をとらえていくことが大切です。

間接的なところや、受動的に起こること(相手が引き出して気づくなど)は、自分ではコントロールができないので、自分がやるべきことを重ねて、あとは委ねていくという意識がちょうどいいバランスではないでしょうか。

気づかないところで、与えているし、得られてもいる。

そして、自分もまた、気づかないところで、誰かのしたことに支えられたり助けられたりしているという視点も取り入れていきましょう。

上記の例でいえば、「落下している商品を戻してあげることができた」のは、「そうなっていたら拾って戻そう」と、子どもの頃に指導してくれた先生のおかげだったり、

「書類の形式が採用された」のは、「その形式使いやすいね」と認めてくれたたくさんの同僚や、「じゃあ、それに変えよう」と決めてくれた上司のおかげだったりと、

「自分が、してあげたこと」にも、「してもらったこと」が、関わりをもっています。

こういうふうに、「戻っている」という受け止め方も含めると、視野が広がってきて、いろいろと思っている以上に、自分も得られているし、戻ってきていることがあって、

自分がしてあげたことは、確かに、自分のためになっていることがよくわかります。

この世で人生を経験する誰もが、こうして、してあげる、してもらうという繋がりの中で、気づきを得ているんですよね。

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