今世での、「使命」というものについての考え方。

この世で経験するできごとは、すべて「意味があって起こる」ことで、無作為にたまたま遭遇することはありません。

私たちが、この時代のこの世に生まれてくるという事実もふくめて、すべては「そうなる意味があって、起こっている」ことなのです。

今世での使命という言葉の、とらえ方。

誰もが、たましいの課題にふさわしい時代や場所、家族構成、性別、その他のさまざまな条件を「選んで」うまれてきていることは、スピリチュアリズムに関心をお持ちの方には、よくしられている知識です。

この人生で、たとえば、東京にすむ日本人女性として、3人兄弟の長子として生まれてきたとしたら、その状況で経験することに、何らかの必然性があるからです。

経験して学ぶべき事柄のうち、重要度の高いものについて「今世の使命」という表現が使われる場合があります。

そのことをするために生まれてきたとか、この事柄を成すための人生という、明確な目標があってほしいという考え方になる人は、自分の今世での使命を知りたい、という考えになるようです。

実際に、「自分の使命は何か,守護霊にたずねたい」という内容の相談をいただくことは多々あります。

誰もが、この人生でなすべき課題をたくさん持っていて、その中でとりわけ重要度が高いものは「ある」としても、しかし、そのこと「だけ」が大事ということではないですので、解釈に注意が必要です。

大きいことも、小さいこともすべて、大事な経験であり、小さいことが存在するからこそ、待避として、大きいことの価値もわかるのですから、ひとつかふたつの目立つことを、単体でとらえてしまう解釈では、視野が狭くなってしまいます。

とても言葉では語り尽くせない、壮大なもの。

私は、このブログでもセッションの中でも、使命という言葉をつかうことがほとんどないです。あえて、その言葉を使わないようにしている、という面もあります。

私たちのたましいが、今世という人生の機会を得て、生まれてくる目的とは、とても壮大なものです。そこに、「あなたの使命はコレです」と、定義をつけるような解釈は、ある意味わかりやすさを助けるけれども、しかし、本来の意味や意義の深さを覆ってしまうこともあるように思うからです。

この人生の目的となることは、とても複雑で神秘なしくみが作用していますから、私たち人間の感覚でとらえられる範囲はその一部分でしかなく、言葉であらわすことが可能な範囲もまた、ほんの一部でしかないのです。

ですが、使命という言葉が与える印象は、もっと大きくて深い、全部であり、中心であるかのようなイメージであるような気がして、私は、この言葉を扱うことが、とても難しいと感じてしまいます。

今世での学びの課題は、無数にある。

すべての人は、学びの課題を、複数備えて生まれてきます。たったひとつの目的を達成するための人生というのはありません。

規模の大きいものから、小さいものまで、無数と言ってもいいくらいの量を、誰もが備えて(与えられて)、今世という機会を過ごしています。

その中で、メインとなるような大きい事柄を使命と定義するとしても、ひとつの限定された事柄のみのために、数十年という人生があるわけではないので、

今世という一度の機会での経験は、とても複雑で深い構造になっていて、たとえば「1つの山を、多方面から同時に、それぞれの方法で上ることを、ひとりの人が行っている」ような、そうした深さや奥行きのある、進み方でなされています。

そのうちの、どの面を(便宜上)とりあげるかによって、解釈も、受け止め方も、まったく違ってきてしまいますよね。本来は、この立体的な「全部」が該当するのですから、一部分のみを殊更に強調すると、立体が、平面になってしまいます。

たとえば、個人の、重要な経験を使命ととらえる場合。

その人のたましいが、個人的に、この人生ではこのことを必ず経験して、人生の目的の軸としていこうと決めてきたことを、使命という言葉でとらえた場合を考えてみます。

たとえば、「今回の人生では絶対に子供を持とう」という目的で生まれてきた方は、きっと、(たましいに促されるので)わりと早めに結婚なさって、早めに子供を持つというプランを選択なさるでしょう。

・・・となると、だいたい40代半ばにもなれば、子供も成人して、手を離れていく計算になりますよね。人生80年の時代に、もしも、人生の使命がたったひとつ、子供をもつことだけならば、・・・その女性は、後半の人生は目的なく生きることになってしまいます。

その人が結婚に至るまでの期間も同じことが言えます。結婚して子供を持つことが、現実的に視野に入ってくるのは、早くても10代後半くらいですよね。それまでの間も「子供を持つという使命」に一心に向かっていく人生を過ごすというのは、ちょっと不自然になりますね。

5歳には5歳なりの、10歳には10歳なりの、必要な経験と学びがあり、それらが積み重なった先に、さらなる複数の学びが展開していきます。それらすべての経験が、今回の人生を生きる目的であり、(使命という言葉を使うならば)使命だと言えます。

人生での学びのテーマは、その人の成長に合わせて都度、移り変わるものであり、広がりを見せるものでもあるので、「あなたの人生の目的は○○です」というあらわし方は、どの部分を伝えたとしても「全部ではない、一部分になる」という理解が大事ではないでしょうか。

または、大勢の他者に働きかける役割を、使命ととらえる場合。

自分の個人的なことではなくて、世の中の大勢に対して、果たすべきお役目のようなものを、使命ととらえる場合は、

①その人が、自分の役割についての学びをして、
②そのための発言権を(必要ならば)得ていき、
③たくさんの過程で苦労をしながら、成すという経験をする

というようなプロセスがでてくることが考えられます。規模が大きいほど、プロセスも多くなるでしょうし、期間も長くなることでしょう。

その軌跡のすべては、やはり、ひと言では言い表せるようなものではなくなりますよね。

たましいの学びが進むと、使命という言葉にとらわれなくなる。

こうしたしくみを理解していくと、使命を自分が知っていく過程そのものが、人生だということに気づいてくるので、使命を知りたいという関心は薄れてくることが多いです。

言葉で定義できるのは、「その時点からの、一部分を、言葉で表現したもの」であり、本来はもっと深くて広い、全体像があり、しかしその全容はわからないようになっている、ということが、わかってくるからです。

人生の軌跡が、使命の軌跡。

この人生で、目の前に示される経験やできごとのすべてが、自分に必要な学びに関連していて、今世の人生そのものが、与えられている使命の軌跡です。

その進みを、人生という経験を通して体現しているのが自分であり、自分の人生という経験の進みが、使命の進みでもあります。

つまり、この人生の途中で、使命がおわりきることはないのです。

人生のある限り、学びは続いていきます。

人生をある程度進んできて、半分くらいを過ぎたあたりで、少しずつ、自分のことがわかってきて、自分の経験してきたことの意味や意義を、理解することも、納得することもできるようになってきて、

そうすると、使命という言葉へのとらわれから抜けて、「自分のこの人生を、現実的にとらえていくことが、人生の学びそのもの」だということが、わかっていくのではないかと思います。

その段階になるともう、言葉であれこれ説明する必要はなくなります。

全部はわからない、ということ。

それ以上のわかり方はない、ということがわかるという納得のもとに、自分の人生を扱っていけるようにあります。

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