決めてきた「たましいの学び」を、もしもやらなかったら・・・どうなる?

私たちは、この世にさまざまな「学び」「経験」の目的をもって生まれてきます。

そうした前提で考えてみると、このような疑問や不安がでてくることがあるのではないでしょうか。

「自分は、その目的を成し遂げているのだろうか。違うことをしているのではないのか?」、

「もしも、その目的に向かわずに、違う方面へ向かうことに仮になったとしたら・・・どうなるの?」という、目的どおりに進まない場合に「どうなるのか」ということです。

このような疑問や不安がでてくる理由は、大きくわけて2つです。

1,自分が後で不利益を被るのでは、という心配

ひとつは、「自分がやるべきことをやらなかったら、後になって自分に不利益がくるのではないか」という不安ですね。

そのことをしなかった「しわ寄せ」や「ひずみ」がでてきて、その後の自分の人生が混乱したり、起こるべき計画が起こらなかったりするのでは・・・、というような。

しかしそういう心配は、基本的にはしなくてもいいでしょう。

私たちは何度も生まれ変わっていきます。「そのこと」が、たましいにとって経験しなければならない課題だとすれば、いつかの人生で、また機会がつくられて学ぶことになるでしょう。

どうしても今回の人生で、経験しなければ「ならない」ことなら、どうしても経験することに「なってしまう」のですから、その道をとらない選択ができるなら、今回においてその選択は「アリ」だということです。

決めてきた学びの中には、「明確に決めていること」もあれば「柔軟に、だいたいの大枠をつくっているだけのこと」もありますから、後者であればそういう形になることもありえます。

2,他者の学びを邪魔しないのか?という心配

もうひとつは、「自分がやるべきことをやらなかったら、その件が遂行される前提で経験の計画をたてている他のたましいがいるなら、自分のせいでその経験ができなくて困ってしまうのではないか」という心配です。

たとえば、「二人が揃って共同研究をやるような計画で、生まれてきているのに、もしも自分だけがその道に進まなかったら、もう一人の誰かの予定を狂わせてしまうのではないか。自分のことだけならともかく、そうして他人にまで影響を与えてしまうのか」というようなケースです。

他人に配慮する気持ちが大きい人は、そういう考え方で不安になることもあるでしょう。

ですが、その役割が、どうしても自分と決まっている「動かせない予定」ならば、自然にその道に進むようになります。こちらも、その道をとらない選択ができるなら、それもアリだということです。

こういう場合、相手の方にとって「二人で研究すること」が動かせない予定ならば、その事柄自体は確定で、相手は「自分ではない別の誰か」が務められることになるでしょうね。

縦糸と横糸が織り成して、ものごとが展開する。

中島みゆきさんの歌で「糸」という名曲があります。歌詞の内容は、「あなたという縦の糸と、自分という横の糸が、織り上げられて布となり役割をなす」ものですよね。人との縁についての素敵な歌です。

この世での「学び」とは、この歌詞でいう「糸」のようなもので、「自分の学びを織り成していく縦糸」と、「今生においての経験という横糸」とが交差していくのだと思うのです。

縦糸は、時間の概念にしばられない「自分のたましいの領域のこと」で、横糸は、この世という時間や、自分以外の他人も関わりをもつ「この世のさまざまな事柄が反映すること」です。

たましいの縦糸(に含まれる内容)は決まっていても、今生の経験という横糸は自分だけの都合ではれないので、場合によっては、学びの順番がかわることもあるでしょう。むしろそのほうが学びが大きくなるということで、別の学びが優先されることもあるかもしれません。

そうしたら、次の人生で、今回やる予定だった学びをするのかもしれませんね。ということは、今の人生での学びも、過去の人生から持ち越しているものかもしれませんし。

そういういろんな事情があって、それぞれの縦糸としての学びは、そのときどきの「横糸という、自分以外の要素との兼ね合い」をはかりながら、進んでいくこととなるのでしょう。

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