比較という行為で把握ができるのは、この世だからこそ。

この世は、比較という行為によっていろんなことが把握できる場所です。

AさんとBさんでは、「Aさんのほうが身体が大きい」とか、「Bさんのほうが走るのが速い」とか、「二人とも、昨日より今日のほうが作業は進んでいる」とか、無意識もふくめていろんな比較をしています。

自分を知ろうとするときにも、「自分と同僚」の成績を比べたり、「自分と平均値」ではどのくらいの差があるだろうか、「自分のできることの中で、一番の得意」とは何だろう、「過去の自分と、今の自分の変化」はどのくらい差があるか、という考え方を当てはめますよね。

「比較」がないと、こうした把握ができません。

この世では誰もが自然と、こうした感覚をはたらかせているけれど、これは「この世だからできる経験」であり、あの世ではできない把握の仕方です。

なぜなら、あちらの世界はすべてが「ひとつ」だからです。

ですから比較しようがないですし、比較する必要がないとも言えます。

一方こちらの世界は、「あれ」と「これ」とか、「自分」と「他人」というように、それぞれを個別に認識する世界です。そのため、こちらの世界では、比較という行為を通した理解が容易であるとも言えますし、そうしないと、それぞれが把握できないとも言えます。

この世の経験を学ぶためには、比較をすることによる把握は必要です。

ただ、それが極端になると、上になるのが素晴らしいことで、下になったら未熟で劣っているというような偏った解釈がうまれて、自分を過小評価して落ち込んだり、もっとあの人みたいに頑張らないと(今のままの自分では低い)と思い込んでしまったりすることがあるので、その点には注意が必要です。

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