「受け取らない、受け取れない」ことが引き起こす不調和。

「受け取ることが、とても苦手な人」がいるものです。

そういう人は、客観的には「受け取ることができない人」なのだけれども、自分では「あえて、受け取らないようにしている」という認識に置き換えて、本心を覆っていることがあります。できないのではなく、あえてしないだけです、というふうに。

表向きの理由は、自分でできるからとか、人に負担を掛けないようにしている、ということだけれども、本当は「受け取ることへの恐れ」によって、受け取ることができないケースがほとんどです。

2つの怖れが、受け取ることを難しくさせている。

受け取れるものを、受け取らないでいると、そこに不調和がうまれます。本来、動きのあるところを、自分が止めてしまって、スムーズでなくしているのですから当然ですね。

受け取ることへの怖れは、おもに2種類です。

ひとつは、「自分の望む形ではないから」です。望んでいないものを受け取ったら、望むものを受け取る権利が減ってしまうのではという怖れがあって、他者からの好意を受け入れることができません。

もうひとつは、「もしも、受け取ったら、その対価として、自分から別の何かが取り上げられてしまう」という怖れをもっている人もいます。

こうした怖れにとらわれて、受け取らないでいると、「何でも自力でやらなければならなくなり、忙しくて大変になる」のは勿論のこと、人間関係をうまくいかなくさせてしまうことがあります。こちらのほうが、大きな問題になりやすいようです。

「受け取りやすいところ」から、まとめて取ろうとしてしまう。

こういうケースでよくあるのは、「自分の望む形で親切にしてくれるような人」と、たまたまめぐりあったときに、それまでの分を取り返すかのごとく、限度越えで、受け取ろうとしてしまうことです。

自分が望む形で提供してもらえる親切ですから、スムーズに感じられるために、無意識で「求めすぎ」になって「依存」になってしまいます。そして、そのことに気づきません。

今まで耐えていて、受け取ることができなかったのだから(・・・というか、自分が受け取っていなかっただけですが;)こうしてスムーズに受け取る権利があるかのように、曲解してしまいます。

自分的には、トータルで釣り合いがとれるとしても、その個別の相手からしたら、一方的に、奪われるかのように求められることになります。いくら気の好い親切な人でも、そうした扱いをされたら「なぜ自分が?」と思ってしまうでしょう。こういう関係は、長続きしません。

そうなったときに、「受け取ろうとし過ぎてしまったこと」に気づかずに、「ほら、やっぱり。自分が受け取ろうとすると、うまくいかなくなる」という感想をもってしまうものですが、客観的に見るなら、 「受け取れるところから受け取らず、受け取りたいところからまとめ受け取ろうとしていることが、歪みをつくっている」ことになります。

普段からもう少し柔軟に、受け取ることをしていれば、そういう親切な人と知り合えたときに、求めが(無意識に)過剰になることはなく、もっと長くよい関係が続いていたかもしれません。

受け取れなくしているのは、世の中のせいでもなく、特定の相手のせいでもなく、自分がそうしているんですよね。

望むとおりではなくても、受け取ることも必要で大切。

このことに当てはまっていると自覚するのはとても難しいのです。自分は、してあげてばかりで得られていないという意識、被害者の意識でいることが多いからです。

実際に、こういうタイプの人は、他人や世の中にいろんなことをしてあげています。してあげる立場になることが多い人が、このパターンにはまりやすいいのです。

してあげることはどれも、尊く価値があるのだけれども、自分も受け取る側にならないことには不調和がつくられるのです。ときにそれが、望む形そのままではなくても、受け取るという行動も、スムーズな動きと、人の調和のためには、必要なことだと受け入れましょう。

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